さんぽ日和

毎日更新するつもり

怪物

前から気になっていた是枝監督の映画がプライムに来たので、新年早々試聴した。内容、あらすじは一切耳に入れず、視聴できたことはなによりでした。

中学時代、文学など好きではなかった私は、勉強の傍ら、 勉強机の明かりの下、強制的に買わされた電子辞書に付属されていた宮沢賢治銀河鉄道の夜にたまたま出会った。読み終わった時、夜はふけ、気づけば私は一人でに涙をはらはらと流し、嗚咽し、その涙は止まらなかった。途切れてしまった物語の続きを求めてしまうのは、とうに失われた美しい過去の思い出に手を伸ばす感覚によく似ている。

この怪物という映画はあの時初めて味わった、胸からこみ上げてきたどうしようもない切なさを再び汚れ腐った私に思い出させてくれた。届かないものほど切なさは増し、美しく映る。

 

きらめく若葉の美しさ、湖の見える窓から入る陽だまり、揺れるカーテン、うとうとしてしまいそうな午後、泥だらけの靴、秘密基地…そうです、怪物は純文学です!と言ってしまえば、浅はかだ、チープだ。自分の言葉の拙さで美しい世界を壊してしまいそうで、あぁ嫌だ。

あの堀先生のクラスにいた女の子はBLらしきものを読んでたから、きっと彼らの関係に薄々と気づいていたんだろう。いや、彼女だけじゃなくて、クラスのみんながどこかしらで気づくんだろう。それは理屈ではなく、直感であり、においであり、本能的に。

子供とはなるほど怪物に違いない。人間とはまた別の体の小さな人間…。子供から大人に変わる、動物からニンゲンに変わる時期の心の不安定さ、危うさ、脆さ。本能的な嗅覚が衰え、大人になってしまった親や教員が、この社会の決まり事に侵食された脳で子供の問題に介入したからといって解決するかというとそう単純な話ではない。おとなには見えない世界を子どもは見ている。誰もがみな、一人の別のニンゲン。

 

純文学的愛は、社会問題をも越える。だから、親ガチャとか云々いうけどやっぱり生きることって素晴らしいので、生まれてこなければよいそれが正解というわけでもないんだな。正解なんて求めるのがそもそも間違っている。

 

是枝監督の映画は、社会問題に踏み込んでおり、ただニュースなどで見聞きしただけでその先まで普段考えることはない題材を映像化することで、実は身近にあり得ることであると気付かされるばかりか、さらに最終的に人間とはなにか?という哲学的な答えを考えるように仕向けられた作りになっているのですごいなぁと思いました。そしてそこにはいつも人間賛美がうかがえます。

表面的なものだけでは、真実は語れなくて、悪いといわれていることにも実は良いこともあるように、汚いといわれているものに実は美しさがあるように、それに気付けた時、人は本当に幸福なれるんだと思います。

 

ラストはふわふわーと終わって行きましたが、あの終わり方も含めて私は怪物の少年二人は銀河鉄道の夜のカンパネルラとジョバンニだと思いました。